THE POOL CLUB DPD-風
【OL/オフィスレディ・苦痛・調教】精神的M女が覚醒する露出ドラマ。街や電車の中、レザーロングコートの下に潜む羞恥と信頼が交錯し、伊達監督ならではの心理描写が冴えるAV動画。
本シリーズに登場するM女は、他者から与えられた肉体の苦痛に耐えて悦ぶM女ではなく、自らの【M妄想】によって脳内でエクスタシーを得る、いわゆる精神的M女であり、さらには、『撮影』と言う名の『調教』によって、【自己の性】に初めてに気がつき、そして覚醒したM女たちだった。
ところで、「なぜ彼女たちは、自らの恥態を自ら進んで曝け出したのか? と言うと、Sの立場である伊達と彼女たちとの間には、次のような『精神的契約』があったからである。 「必ずやお前を守る。 だから俺と、俺を通じてお前を見る人だけに、お前の心と身体のすべてを見せて欲しい…。
「信頼できるからこそ、私の心と身体のすべてを、貴方と私のファンだけに捧げたい。 そして、共に悦楽したい…。 つまり、二者の間にまるで『恋愛契約』とも言いえる位の強い【信頼関係】があったからこそ、伊達の露出隷女たちには“真のMの瞳”を見ることが出来るのである―。















THE POOL CLUB DPDシリーズは、繁華街の喧騒や人々の視線を背景に、現実と非現実の境界線が曖昧になる露出の瞬間を淡々と切り取る。冒頭からただならぬ緊張と解放のリズムが漂い、視聴者は「彼女がこの後どうなるのか」を息をひそめて見守ることになる。電車内や街角など匿名性の高い空間における声や衣擦れの音が、かえって心理的な裸を際立たせ、まるで自身がその場に居合わせているかのような臨場感を生むのが本作の特徴だ。その徹底した“リアル”が、この作品群の背徳的な快感の基盤となっている。
登場する女性たちは単なる被写体ではなく、伊達監督の鏡写しのように精神の奥を見せる存在だ。レザーロングコートを羽織ったお姉さん、制服姿で脚線を惜しげもなく晒す若い娘など、いずれも衣装が象徴するのは「隠す=晒す」というコスチュームフェチの対比構造。むっちりとした肉感に宿る素人感、あるいは控えめながらも決して消えない羞恥の灯が、娼婦でもモデルでもない“日常の延長上にいるM女”を成立させている。衣装が剥がされるたび、抑制と衝動、羞恥と信頼が交錯する心象のドラマが立ち上がる。
プレイ描写は直接的というよりも、精神的な揺れが画面の端々に表れるスタイルだ。被写体が「嫌らしい」「恥ずかしい」とささやかれる声に反応して、呼吸を乱し、腰がわずかに痙攣する――その瞬間、観る側の視覚と聴覚が刺激され、想像の余白を強く意識させられる。レビューでも「一線を画する淫靡さ」と高く評価された通り、典型的な露出プレイに止まらず、心理的支配と恍惚を往還する精神的M女の姿を真正面から描いた点が際立つ。肉体の露出は彼女たちにとって“撮影=覚醒”の儀式として機能するのだ。
最後に、POOLCLUB ENTERTAINMENTの作風を語るうえで特筆すべきは、演出よりも「信頼」の可視化に重心を置く点である。あらゆる演出がSとMの契約的関係を映し出し、カメラはその“信頼の場”を冷徹に記録する。シリーズを通じて制御された照明と限定空間が、堂々たる美学を備えた露出ジャンルの代表格としての地位を確立。深層に潜むフェチ心理を、知的かつ感覚的に表現するその作劇は、他のAV作品とは明確に一線を画す。